日本:北海道の編入
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By 坂田美奈子

1881年から1908年まで、ボアソナード起草による刑法の下、北海道は日本で唯一の流刑植民地であった。近代日本における地政学的な位置づけから、北海道はしばしば「内国植民地」と呼ばれてきた。この用語は字義通りにはinternal colonyと訳される。しかしながら、その概念はポストコロニアル的課題としてのinternal colonyとは異なる。日本史研究における「内国植民地」という用語はむしろ、新規領土の編入や植民地化という歴史的プロセスを問題化することなしに、北海道と本土との不平等な関係を国内問題として表象する概念にみえる。そのためにこの言葉にはどこか非歴史的な響きがあり、日本の国民国家建設と北海道の歴史的地位との関係を曖昧にしてしまう。このような用語法は、歴史研究者においてさえ、北海道があらかじめ日本のフロンティアであったという認識のあることを示唆している。北海道は、特定の歴史的過程を経て日本の辺境となった異民族の土地というよりは、あらかじめ日本が所有し、利用する当然の権利をもつ地域とみなされる傾向があるのである。

 

一方、日本近世において、北海道は明らかに日本の外にあった。北海道の大部分は蝦夷地と呼ばれていた。蝦夷とは字義的には「未開人」を意味し、具体的にはアイヌを指した。つまり蝦夷地とは蔑称ながらも「アイヌの土地」を意味した。しかしながら、近世においてさえ、蝦夷地は日本の支配下にあるという認識のあったことは確かである。対照的に、アイヌの口頭伝承において、日本人が支配者として表象されることはない。そのかわり、日本人は時に善良な、時に非道な隣人として現れる。

 

ここでは、18世紀から20世紀初頭にいたる流刑制度の歴史をとおして、日本の辺境の変遷および北海道の日本領化プロセスを検討する。

 

近世における流刑地

日本近世において、流罪(遠島)は死罪に次ぐ極刑であった。流刑地は本土周辺の離島であった(伊豆諸島、五島列島、天草諸島、壱岐、隠岐諸島など)(地図1)。流人は特定の施設に監禁されるのではなく、現地の村の五人組に入り、組頭らの監視のもとで生活した。

 

流罪とは別に、軽犯罪者、博徒、無宿人などを佐渡に送り、金銀山で使役する制度もあった。これは犯罪に対する刑罰ではなく、その主眼は江戸や大坂などの大都市から無宿人を引き離し、犯罪を防止することにあった。改悛した者は故郷に帰ることも許されたが、島に留まり平人として居住し続ける者もあった。

 

近世の流人人口は明らかではないものの、例えば1610年から1866年の約260年間に八丈島へ送られたのは1823人であった。佐渡へ送られた人数は18世紀後半から19世紀後半にかけての100年間に約2000人であった。いずれも19世紀後半に北海道へ送られた囚人数と比べると、その規模は極めて小さかった。

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19世紀半ばにおける対露国境問題

1854年、徳川幕府は西洋諸国との国交を開始し、1855年にはロシアとも日露和親条約を締結した。この条約によって、千島列島における日露国境はエトロフ‐ウルップ間と定められた。しかしながら、サハリンについてはこの後も日露雑居の状態が継続した。この頃、幕府は囚人移送を植民地化の手段と認識しはじめていた。1856年、老中は、ロシアの樺太進出を警戒し、箱館奉行に対して浮浪者・罪科人の樺太移送を提案している。1866年には箱館奉行が、西洋の行刑制度や、とりわけロシアのシベリアにおける囚人労働に言及しながら、エトロフ、クナシリ、シコタン、リシリ、レブンといった北海道周辺の離島への囚人移送案を提案している。しかしながら、これらの案の実現をみないまま1868年、徳川幕府は崩壊する。

 

北海道流刑植民地化計画

1875年、明治政府はロシアとの間に樺太千島交換条約を締結する。日本は千島列島全体を領有するかわりに、樺太全島をロシアに引き渡した。結果として北海道は日本北辺の国境の島となった。

 

1874年から1877年にかけて、九州を中心とする地域で士族反乱が相次いだ。政府は監獄不足に直面し、政治犯の北海道移送について議論を始める。1876年に司法卿大木喬任が、1877年には内務卿大久保利通が、これに関する意見書を提出している。大久保利通は意見書の中で、流刑・徒刑制度の設定を提案し、その移送先は北海道以外にはないと述べている。流徒刑囚を開墾・漁業に従事させ、刑期満了後も本土には帰さず定住させる。北海道は遠く、慣れない土地なので、囚人も畏れて逃亡する気も失い勤勉に働くだろう、とも記ている。大久保は、単なる政治犯の隔離策ではなく、国益にも資する策としてこの提案を行っている。これは近世日本で行われていた流刑とは全く異なるものであり、西洋の行刑制度の影響は明らかである。

 

大久保の意見書に先立ち、明治政府は西洋の行刑制度の研究に着手していた。とりわけフランスの刑法に最も関心をよせ、1873年、旧刑法の起草者となるフランス人法学者G. E. ボアソナードを招聘する。1880年公布のこの刑法には重罪の主刑として流刑と徒刑が含まれていた。西洋的な刑法の導入は不平等条約の改正にむけた努力、つまり日本が近代国家として承認されるための努力の一環であった。流刑制度および流刑地選定に関する議論は、この新しい刑法の編纂過程と歩調をあわせて進められた。

 

大久保の後任として内務卿に就任した伊藤博文は、1879年、流刑地に関する意見書を提出している。彼の主張は次のようなものであった。刑法改正によって、囚人の増加が見込まれる。徳川時代には本土周辺の離島を流刑地としていたが、これらの島々は狭く、囚人たちが定住するに十分な土地を確保できない。また大量の囚人を送ることによって治安が悪化する恐れもある。北海道は広大かつ肥沃である。囚人を開墾や鉱山労働などに使役し、刑期満了の後、定住させれば北海道の人口も増加するだろう。1880年2月、伊藤の意見は受理され、1881年から1895年の間に、重罪犯及び国事犯を収容すべく5つの集治監が北海道に建設された。

 

月形潔の意見と方針転換

樺戸集治監は北海道に設置された最初の集治監である。地理的には北海道の首都札幌に比較的近く、北海道の監獄行政に重要な役割を果たした。樺戸集治監典獄は1889年以降、樺戸・雨竜・上川三郡の郡長も兼務した。初代典獄の月形潔は1883年から1885年の間に、北海道開拓に関する複数の意見書を政府に提出している。この時期、政府は北海道開拓政策の転換を模索しており、政府役人が相次いで北海道を視察し、樺戸集治監にも立ち寄っていた。月形は1885年に典獄を辞職するが、彼のアイディアの多くは北海道庁によって実現されている。

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月形は大きく4つの提案を行っている。①囚人が開墾した土地の売却もしくは無代下附、②囚人労働による道路開鑿、③華族の出資・経営による農場の設置(華族には北海道開拓に対する責務があると月形は考えていた)。そして④集治監近郊への屯田兵村の設置、である。このうち①③④は囚人が開墾した土地の利用に関する提案である。つまり囚人労働の北海道開拓事業への活用を多角的に提案したのである。

 

西洋における流刑植民地制度を参照しながら月形は、集治監は囚人労働による開墾を行い、刑期満了後は彼等を北海道に定住させるべきであると主張すると同時に、次のような意見も述べている。樺戸集治監から出所する囚人は毎年15人程度にすぎない。一方、すでに500ヘクタールの土地が囚人によって開墾されており、さらに今後1000ヘクタールを開墾予定である。現在、これらの土地を入植者に払い下げることは許されていない。しかしながら、もしこれらの土地を囚人に貸与するのみならば、すべての土地を貸与し終えるまで30年から60年の歳月がかかる。土地と囚人の労働力を共に活用するために移民に囚人開墾地を売却すべきである。石狩川上流域には広大で肥沃な土地が存在する。樺戸集治監周辺の土地をすべて売却したとしても、上流に分監を設置して、移民と囚人のためにさらに開墾を進めることもできる。

 

この意見書の作成に先立つ1884年10月、月形は、農耕適地を調査するため石狩川上流域を探検している。8人の集治監職員とともに神居古潭(現在の旭川市の一部)まで遡上し、いくつかの農耕適地を見出した。この探検の途中、彼はいくつかのアイヌ集落を通りかかってもいる。6年後の1890年、集治監より上流、浦臼から深川までに点在したアイヌ集落はウシスベツ給与地(現在の新十津川町の一部)へ移転させられた。この移転がどのように行われたのか、具体的には明らかではないが、22世帯がそれぞれ4.5~9ヘクタールの土地を付与されている。

 

アイヌ集落が姿を消した土地は、同年、移民集落と華族組合農場に生まれ変わった。1887年から1890年、樺戸集治監は北海道庁に監獄用地の一部を返還しているが、これは移民に土地を売却する手続きの一環であった。1887年と1889年、ふたつの監獄農場が売却され、1890年にはおよそ1168ヘクタールの未開墾地が道庁に返還された。この土地はその後、移民に貸しつけられた。月形の提案とは裏腹に、上流域の土地のほとんどは未開墾のまま返還された。これはおそらく、1887年以降、開墾よりも道路開鑿に囚人の労働力が集約されていったためであろう(地図3)。そのかわり、開墾は移民や、開拓会社・華族農場の小作人に委ねられることとなった。屯田兵については、1891年から1896年の間に18の屯田兵村が樺戸、雨竜、上川郡に設置された。一部の村については屯田兵屋も囚人によって建設された。これらの屯田兵は軍事的戦力というよりはむしろ、開墾・耕作の労働力として期待された。

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1889年、雨竜原野の土地5万ヘクタールが華族組合に貸し付けられた。華族組合の参加者は三条実美、蜂須賀茂韶、菊亭修季、大谷光瑩、戸田康泰、秋元興朝の6名で、農機具や家畜をアメリカから輸入して西洋型農場の設立を試みた。労働力としては、初年次には囚人労働が用いられ、二年目以降は本土からの小作人が雇われた。「雨竜農場開設ノ要旨」には、この農場設立の趣旨が次のように述べられている。北海道は国防上の要であるのにその開拓は進展していない。一方、ロシアは近年、兵士や罪囚を樺太へ送り着々と開拓を進めていると聞く。北海道は樺太と隔たること一葦水であり、おろそかにはできない。華族は皇室の藩屏として北海道に投資し、モデル農場を経営する責務がある。経営上の理由により、組合はわずか四年後に解散するものの、参加者のうち蜂須賀、菊亭、戸田、大谷はそれぞれこの地域で農場経営を継続する。

 

流刑制の終焉

1890年代には移住者の増加に従い、囚人労働への批判が噴出するようになる。囚人労働の非人道性や、監獄周辺の村々での脱獄囚による犯罪などが問題となっていた。1892年の帝国議会では、衆議院議員のグループが、囚人労働は北海道開拓の障害になっていると批判した。このような社会的状況を背景に、1894年、政府は北海道集治監の囚人を北海道で釈放しない方針を決定した。毎年300~400人の囚人が刑期満了を迎える前に本州の集治監に再移送された。結果として、北海道で放免される囚人は年に10~20人に留まった。しかしながら1897年には、皇太后の崩御に伴う恩赦によって2427人の囚人が減刑・釈放されることとなり、439人が北海道で放免された。このとき樺戸集治監から釈放された106名のうち20名は月形村の郊外に入植した。樺戸集治監はこの地域を放免囚の村にする計画であった。しかしながら、この地域の入植者たちはそれを阻止するため分村運動を起し、1899年、同地域は浦臼村として月形村から分離した。

 

1901年、空知集治監と釧路集治監が廃止される。1897年の恩赦以来、北海道の集治監における囚人数は年々減少し続けていた(表1)。外役も減少した。1903年には集治監制度が廃止された。1904年には、政府は財政上の理由から、刑期満了前に囚人を本州へ移送する方針を転換し、1905年以降、旧集治監の囚人は北海道で放免されることとなった。1907年、刑法改正に伴い流刑制度自体が廃止された。
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おわりに

北海道の流刑植民地としての歴史は27年間という極めて短い期間に過ぎない。ゆえにこの制度は開拓時代初期の労働力不足を補う過渡的な制度とみなされがちであった。しかしながら、この制度が短期間で終了したのは、それがロシアの領土拡大に対抗すべく、かつて日本の外部であった北海道を日本国内の辺境地域に変貌させる手段であったためともいえる。いずれにせよ流刑制度の導入が可能であったのは北海道が日本の新しい領土であったがゆえである。

 

近世日本における辺境は本土周辺の離島で、それらが流刑地であった。19世紀半ばには、幕府は国境問題対策として蝦夷地に流刑制を導入しようと考えた。しかしながらこれを最終的に実現したのは1868年に誕生した明治維新政府であった。

 

明治維新後、北海道は、植民地化の手段としての西洋的行刑制度を導入できた唯一の場所であった。しかしながら、逆説的に、この計画が進展し、入植者人口が増加するほどに、流刑植民地の建設と維持は困難になっていった。囚人は北海道開拓の障害とみなされるようになり、単なる労働力として扱われ、入植者としては受け入れられなかった。

 

流刑制度は本質的に植民地の労働力を補う過渡的な制度であって、いずれの帝国においても遅かれ早かれ終焉を迎えている。北海道の場合、確かに、このプロセスは他の帝国よりも急速に進行した。しかしながら、流刑植民地制度の北海道への導入は、当時、領有を主張する実質的努力なしに、この島が日本領として明白でも安定的でもなかったということを確かに示しているのである。

 

 

参考文献

旭川市史編集会議編『新旭川市史』2、旭川市、2002年。

重松一義『北海道行刑史』図譜出版、1970年。

田中修『日本資本主義と北海道』北海道大学図書刊行会、1986年。

北海道編『新北海道史』4、北海道庁、1973年。

ボツマン、ダニエル・V『血塗られた慈悲、笞打つ帝国:江戸から明治へ、刑罰はいかに権力を変えたのか?』小林朋則訳、インターシフト、2009年。